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●米の品種改良に尽くした人


藤川 禎次

 東播北部は古くから酒米の生産地として知られている。これは、気温・降水量・地形などの自然条件 に恵まれているためである。酒造に適した米の条件は粒が大きいこと、心白が中心部に鮮明に出ていること、 溝が浅く表皮が薄く粒がそろってことなどがあげられる。
兵庫県では県立農業試験場の種芸部が中核となって 県の奨励品種、"山田穂"や"渡船" などを決定したが、これらは収穫量が少なく草丈も長く倒伏するくせもあって、 農家はあまり生産を喜ばなかった。大正12年(1923年)県立明石農事試験場で"山渡50-7"の系統名をもつ新品種が開発された。この品種の産地適応性や栽培法を研究するため昭和3年全国にも例のない酒米試験場が加東郡福田村 (社町)に設けられた。この初代主任となったのが当時加東郡農会に勤めていた藤川禎次(加東郡滝野町出身)である。 だが、この命を受けたときの禎次 は「いったい何をどうすればよいのやら見当もつかない。」と周囲にこぼしたほど五里霧中の状態だった。
酒米に関する資料など皆無に近い時代だった。彼は、当時"腹白米"と呼ばれていた酒米に関する資料を根気良く集めることからとりかかった。同時に、東西の酒の醸造についての文献を読みあさって、単なる技術だけでなく理論で裏付けしながら実験を積み重ねていった。このねばり強さは、幼くして両親を失って世の辛酸をなめた体験がものをいった。彼は、グチも言わず黙々と比較研究に没頭した。新しい品種が生まれたといっても陽の目を見るまでには長い歳月を必要とする。肥料や日照はもとより、心白量はどうか、耐病性や収穫量はどうかなど、他品種との比較試験を繰り返さなければならない。一粒の籾の選別から始まって苗、株、そして一穂一穂についての綿密な調査と膨大な資料の整理など、昼夜を分かたぬ努力が続いた。より効果的な試験場が美嚢郡奥吉川村金会(現吉川町金会公民館付近)に設けられた。禎次この試験場の主任として研究を続けた。
そして、ついに"山渡50-7"を母体として昭和11年に"山田錦"が開発されたのである。これは、それまでのものより酒造に適した大粒米で心白量が多く、収穫量も多かった。また、精白が容易で搗(つ)き減りが少なく、蒸米としても放冷後柔軟性を保ち、溶解も順調に進行するという特徴を持っていた。もっぱら高級酒醸造に適している。県では、これを奨励品種に指定した。
山田錦の優秀さはみるみる全国に知れ渡った。しかし、昭和10年代後半にわが国戦時体制に突入するとともに事情が変わってきた。国策とし食糧増産に重点がおかれたため酒米の生産が圧迫された。「せっかく苦心して作ったのに、だれも酒米のことなんか考えてくれない。」と、めずらしく禎次はグチをこぼした。それでもなお研究をつづけた。戦後山田錦は復活した。生産量がみるみる増加して日本一の酒米といわれるようになった。酒は、水が体、米は肉といわれる。灘の生一本が天下に名をとどろかせているのも、宮水の存在とともに近くの北播磨や摂津に良質の酒米産地をひかえていることを忘れてはならない。

ニューひょうご1990 11 No.278
兵庫人国記 米の品種改良に尽くした人たち(作家 黒部 亨)抜粋



山田 篤治郎
(吉川町市野瀬)

 小野氏の遠孫 門脇五兵衛の嫡子兵蔵、享保の初、ここに分家し姓を山田と称す。これ当家の初祖なり、以後酒造を業とす。
第7代彦十郎、天神高見氏より篤治郎を迎え第8代となす。
 篤治郎、明治の中期酒米を鳥居米と銘名し西宮辰馬悦蔵と取引を始む。
 参考資料 兵庫県郡役所事積録 抜粋

明治26年12月、奥吉川村市野瀬において山田篤治郎氏等が発起となり百難を排し苦心の結果、鳥居米に凝し改良米50石を作り、これを標本として摂津西宮醸造家辰馬悦蔵氏に交渉し取引を開始したるに頗る好結果を得たり、ここに改良米共同販売の萌芽を発する。


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