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山田錦の誕生


 大正12年に兵庫県立農事試験場で、山田穂を母とし短稈渡船を父として人工交配を行い、選抜固定の後、山渡50-7の系統名をつけ、品種比較試験を行って昭和11年に山田錦と命名、奨励品種に編成され、山田錦が誕生しました。
その後50年を超す長い歴史のなかで、品種改良が試みられ、新品種が数多く登場しましたが、依然、山田錦は、酒米としての王座を守りつづけています。

 

山田穂の由来


 伊勢講といえばだれでも知っている藩政時代から引き継がれてきた伊勢詣りのための積立預金のことである。そして、3年ないし5年に1回この積立預金をもって伊勢詣りを楽しんでいた。伊勢詣りの頃ともなると、あちこちの村から三々五々、老若男女がうち揃って手っ甲、脚絆かいがいしく、菅傘を手に半月にもおよぶ悲喜交々の旅を重ねていた。この長旅のうちには、旅は道連れ世は情けの諺どおり道行く人々に朝夕の挨拶はもとより、世間ばなしに花を咲かせていたことも当然であろう。
しかし、こうした話題に楽しみを求めていただけでなく、この中から新しい知識を求め、そして身につけたらしい。
稲作についても、知らない土地で目新しい品種を見ればその一穂をこっそり持ち帰って試作してみたり、作り方にしてみても、たがいの話題の中から教えたり教えられたりしていた。
ここにいう山田穂も伊勢詣りのとき、美嚢郡吉川町の田中新三郎氏が、当時の酒造家が好む酒米、すなわち草丈が高く穂の大きい、見るからにほれぼれするような酒米を、伊勢山田の近くで発見一穂をを持ち帰り、これを栽培したところ、立派な酒米ができ、その後、酒造家からも好評を博することができたので、豊受大神を祭る伊勢山田にちなんで、山田穂と名付けたものだと伝えられている。