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菊姫の酒造り

特A地域指定の由来

村米制度のおこり

「村米制度」という言葉を初めて目にされる方が多いと思います。これは明治期に始まった酒造メーカーと生産者との間で交わされた酒米の契約栽培のことを指します。ただし、一農家とではなく、その集落(当時は村といった)ごとの契約でした。明治維新後の当時は民政の安定とともに酒の需要が高まり、原料米の確保が必要になってきた頃です。しかし、藩政時代のように米質の改善も数量の確保においても厳しく取り締まってくれるものが無い時代でもありました。そこで酒造メーカー自体において、酒米の確保をはかろうとする気運が出てきたのです。明治30年前後には兵庫県美嚢郡(みのうぐん)、加東郡をはじめとしてこうした動きが隣村に広がり、集落または数人の共同において米の品質改善と販売態勢に力を入れるようになりました。さらに明治41年、米穀検査法が県令によって施行され、各地の集落が競って酒米の質的改善に努めるとともに、酒造メーカーとのつながりを深めていったのです。

「酒造好適米。山田錦と40%精米(兵庫県美嚢郡吉川町)」

昔からある田圃の格付け

酒造メーカーと生産者との二人三脚的なつながりが、結果として現在の兵庫県産の名高い酒米・山田錦をはぐくんできたといえます。しかし、村米制度下にあった村がすべて安定した取引が行われていたわけでもありません。というのは、絶えずその村の農家が一致協力して酒米の改良に努力してきたものだけが永続的に取引されてきたからです。そうでない場合、いつしか村米地の格付けが下がり、やがて姿を消していきました。酒米の格付け例を戦前の図表に見ることができます。加東郡社町(旧米田村)、上久米産の村米が基準価格となり、それに対して安いか高いかの評価が地域別に記されています。