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菊姫の酒造り

山田錦発祥の里 吉川町

天与の地、六甲裏に広がる第三紀層の粘質土壌の地域は古くより良質米を産出している記録は数多く、宮水の発見・灘の醸造技術・ 杜氏等、水は体・米は肉と言われるように、次第と「天下物」に育っていったのであろう。

兵庫の酒米(県酒米振興会編)にも詳細にわたり克明に論述されているように、これらに携われた諸賢の並々ならぬご苦労に対し只々感謝の他はない。何れにせよ、”山田穂”の発見改良に努めた先覚者たちの努力は絶大で、いまでも領徳碑(しょうとくひ)は涼烈の風も何のその、悠然と我が郷土を見守っている。明治・大正・昭和と本県酒米の優良奨励品種として重要な役割を果たしてきたことは、歴史が証言するところである。

酒米の研究が進められるとき県立明石農事試験場種芸部は、大正12年新品種”山渡50-7″を発表し、”山田穂”は新品種として一段と光彩を放っていた。時に昭和3年加東郡福田村(社町)に酒米試験場が設置され、主任技師に藤川禎次氏が着任し、産地適応性及び栽培法の研究に没頭した。また、吉川町金会に試験場が開設され、金会試験場においても黙々と研究に打ち込むうちにこの新品種の特性を探りあてた。昭和11年、県は “山田錦”と命名し、奨励品種に編入した。それは”山田穂”を母とし”短稈渡船(たんかんわたりぶね)” を父として人工交配し、固定まで長い道程を経て、ついに金会試験場において願望を果たした喜びは筆舌に尽くし難いものと言えよう。

“酒米山田錦”が求める土と人、土が求める”山田錦”と人が揮然三位一体の極点に達したのである。藤川という人が幼いとき両親を失い、世の辛酸をなめ、自ら農民の生活を凝視していなかったら、すべてを投げ出して没頭し、たとえ仏天の加護を得たとしても、”山田錦” 吉川の地において四天王の座に祀りあげることは出来なかったであろう。いま、藤川禎次氏は自ら四天王の座にあって、揺れる米問題を静に凝視しながら見守っている、この声なき声を探求すべきだ。私が話しかけていた藤川氏の出身地の研究家は私に向かって、「発祥の地は吉川ですよ。」と気軽に言い、「彼も喜びますよ。」と付け加えた。(筆者 故 奥川隆司 吉川町田谷)

吉川町は、兵庫県南東部、東播磨地域のゆるやかな丘陵地が連なる最東部に位置し、東経135度7分、北緯34度53分にあって、南北12km、東西8.1kmで総面積56.46平方kmを有しています。
相対的に標高90m~270mの比較的起伏の少ない丘陵が点在する盆地状をなし、地質は第3紀層が主体で、地味は肥沃です。そのうえ、気候にも恵まれており作物の栽培に好適です。

* 吉川町は2005年、三木市と合併しました